息軒先生をめぐる人々

水戸藩主 水戸斉昭 徳川斉昭(なりあき)で水戸藩主、景山侯(けいざんこう)と呼ばれ、藤田東湖らの人材を登用して善政をしいた。攘夷論者で、開港、通商条約、将軍家世襲問題などで井伊大老と対立し謹慎させられ、幽居後まもなく没した。息軒とは、外交、海防論で意見が合い、意見書を見たり、書を与えたり、東湖を通じて「知己の君」と息軒が読んでいた。
飫肥藩 伊東祐相 1812年江戸藩邸で生。伊東13代藩主で、1869年長男祐帰(すけより)に家督を譲るまで長期間、飫肥藩の改革等を行い、善政を施した。
飫肥藩 平部嶠南 飫肥藩清武郷中野に生まれ成人してから、飫肥城下の平部家を継いだ。息軒よりも16歳年少で、少年時代は息軒父子に学び、その後、祐相の侍読となる。
振徳堂教授、飫肥藩家老、大参事等の藩の要職につき、藩政に尽くした。
恩 師 古賀洞庵 儒者で、寛政の三博士の一人で、幕府の儒官(昌平黌の教授でもある)として力があった。
恩 師 松崎傔堂 熊本藩の儒学者で昌平校の教授で息軒、塩谷宕陰や木下犀潭の恩師である。
生活苦の息軒を見て、下総佐倉藩(藩主 老中堀田正睦)に仕事を周旋し、収入の道を開いてくれた恩人でもある。(この頃に洋学、天文、暦法、洋兵学に精通する。)
仲間同僚 木下犀潭 熊本藩の儒官で、名を業広(なりひら)、字を士勤、木下真太郎ともいった。
肥後藩藩主の侍読となり、江戸詰の頃、息軒と文会を主宰し、帰国後も、「木下塾(韡村書屋)」で子弟の教育を行った。
仲間同僚 芳野金稜 駿河藩の儒官で、名を成育、字を叔果、芳野立蔵ともいった。
昌平黌の儒官(文久の三博士の一人)で、維新後も大学教授として教育等に力を注いだ。
仲間同僚 藤田東湖 水戸の藩主斉昭の側人(おそばつき)。
儒学者で、尊王運動に活躍したが、1855年の江戸大地震で死亡。
仲間同僚 塩谷宕陰 息軒よりも10歳年少であるが、昌平黌同窓生で息軒の最親の友である。
昌平黌から郷里に帰った。息軒の依頼で、息軒の人物や教育の本義を述べた「明教堂記」を書き、息軒を励ました。
仲間同僚 阿万豊蔵 清武中野に生まれ、息軒に仕え、明教堂や昌平黌で学び、息軒親子が、振徳堂に行ったあと、清武郷教「明教堂」で、30年間教授に当たった。その後、飫肥に移り振徳堂の教授となる。
弟子 谷干城 三計塾の代表的な門下生で塾の基本理念の「三計塾記の書」を書く。
尊王攘夷運動に加わり、後藤象二郎や坂本龍馬らと薩土盟約に関わる。
新政府においては、軍人(西南戦争で熊本鎮台司令官)や政治家として活躍した。
弟子 陸奥宗光 三計塾を退塾後、土佐を脱藩して勝海舟の海軍操練所に入り、坂本龍馬の海援隊で学ぶ。
外務大臣に就任し幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。明治の外交官・政治家:外務大臣、枢密顧問官。
弟子 井上毅
(こわし)
息軒の親友である木下犀潭の門下生で、三計塾にも籍を置いている。
明治4年(1971年)司法省の官僚となり、大日本帝国憲法交付、皇室典範制定、教育勅語の起草等に関わり、法治国家の建設に尽くした。
弟子 雲井龍雄 毛布を購入するように息軒の命を受けたが、「万国公法」を購入し息軒からその正しさを激賞された。
弟子 小倉処平 飫肥城下の武家屋敷生まれ。三計塾の門下生。
小村寿太郎を見出し、東京で勉学させた恩師