息軒先生の足跡

年号 年齢 内容
1779 0歳 旧暦1月1日、飫肥藩清武郷中野に儒学者安井滄洲の次男として生る。
1812 13歳 耕作畑での手伝い時、いつも経書(儒学の本)を持参しいていた。
1816 17歳 父から題をもらい、月明かりをたよりに、一晩で百首をよむ。
1818 19歳 父と初めて2人で延岡へ旅し、一緒に漢詩をよむ。(延岡紀行文「卯の花」)
1820 21歳 10両(1年間の学費相当)持って、大阪の篠崎小竹(しのざきしょうちく)に師事し、飫肥藩邸の長屋で自炊。3年間苦学。(仲平豆で切り詰め)
1823 24歳 帰国後、父を霧島温泉に行かせ、延岡などに一緒に行って好きな俳句旅行をさせた。
1824 25歳 江戸(東京)の古賀洞庵(こがどうあん)に師事し、昌平坂学問所(昌平黌)に入所。昌平黌で親友の塩谷宕陰(しおのやとういん)と交流を開始。
1826 27歳 飫肥藩主伊東祐相(すけとも)の侍読(主君に書物など用いて講義を行う役)を兼ねて江戸藩邸勤務を命じられ、4月古賀塾を退き、8月松崎慊堂(こうどう)塾に入門。
1827 28歳 4月松崎塾を退き、5月藩主と一緒に飫肥に帰国。
岡の小町といわれた川添佐代(当時15歳)と結婚。そのいきさつは森鴎外の「安井夫人」に詳しい。
8月清武郷の学校である「明教堂」が開設され、父とともに教授する。
1831 32歳 飫肥藩校「振徳堂」が開校。父滄洲が総裁(責任者)兼教授となり、息軒が助教に就く。
33歳 飫肥藩で赤子を殺す「間引」を止めるよう藩主に進言し、悪い風習を廃止。
1835 36歳 父滄洲が68歳で没す。飫肥安国寺に葬られる。
1836 37歳 江戸移住し勉学のために1人で出発。
1837 38歳 6月幕府の学問所である昌平坂学問所に入寮。学問所の斉長となる。
1838 39歳 3月一次帰国。6月藩職を辞し、家族とともに江戸に移住する。油津から江戸までの旅の様子を 記した紀行文「東行日抄(とうこうにっしょう)」を著す。
1839 40歳 旗本の家を借り、三計塾を開き、三計塾記(一日の計は・・)を書く。塾のきまりである、「班竹山房学規(はんちくさんぼうがっき)」11ケ条を定める。
1840 41歳 松崎慊堂宅で水戸藩主斉昭(なりあき)側人の藤田東湖(とうこ)と出会う。
1842 43歳 松崎慊堂の推薦で下総佐倉藩(老中 堀田正陸)の儒者になる。 飫肥地方大洪水で、台風等の被害を受けない、稲作の2期作を奨励
1846 47歳 文会(儒学やその解説、さらには外国の様子、政治のあり方等、志を持った友人達との勉強会)が盛会。主催:息軒、木下犀潭(きのしたさいたん)、塩谷宕陰ら。
6月1日 浦賀に米艦状況視察に出る。
1847 48歳 房総、相模、伊豆の海岸を巡覧し、「海防私儀(かいぼうしぎ)」を著す。
1849 50歳 上州の蚕業を視察し、飫肥に養蚕製糸を伝える。
1852 53歳 藩の決まりとして、飫肥家老の平部嶠南を通じて、飫肥藩の子供たちに種痘を実施する。
1853 54歳 水戸藩主斉昭より外国からの開港について意見を問われ、「足食足兵民信之矣」と回答。(斉昭は大変よい意見だとほめた。)
1855 56歳 水戸斉昭から息軒に「足食足兵民信之矣」の書を賜られる。
1860 61歳 (3月3日、桜田門外の変で、45歳の井伊大老が殺される。)
・1月3日妻佐代が亡くなる50歳。高輪東禅寺(たかなわとうぜんじ)に葬られる。
・9月将軍徳川家茂(いえもち)に拝謁。
1862 63歳 12月、塩谷宕陰、芳野金陵(よしのきんりょう)と共に(文久の3博士と言われた)、幕府の御儒者(昌平黌の儒官として教授)となる。(息軒が朱子学派以外からの初めての登用。)
1863 64歳 2月幕府直参(じきさん:将軍家に仕えた旗本・御家人)就任。
1864 65歳 2月福島県白河郡塙(しらかわぐんはなわ)の代官(63,900石の天領)に任命。
8月息軒、高齢を理由に願い出て免官となる。
1865 66歳 (この頃、国内では攘夷封港論から勤皇と佐幕の衝突を繰り返し、各地で戦いが続く。)
1868 69歳 戊辰戦争を避け3月13日川口市領家村の豪商高橋善兵衛家の新宅に家族や門人数名で避難。(4月官軍に江戸城を明け渡す。)11月まで領家村に疎開し、毎日「北潜日抄」(ほくせんにっしょう)を書く。 
11月息軒著書「左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)」の出版のため、彦根藩井伊侯の別邸に移る。
1869 70歳 3月勝海舟や山岡鉄斎から明治天皇の侍講を依頼されるも辞退。 徳川家に申し出て飫肥藩に戻り、家老上席として、藩主若殿祐帰(すけより)の師範となる。
1870 71歳 三計塾生136名となる。
1872 73歳 元旦に「瓦全」と書く。
1876 77歳 9月23日東京の自宅で死亡77歳。千駄木養源寺に葬られる。 (最後を看取ったのが浅田宗伯(大奥の侍医や大正天皇の治療を勤めた漢方医)で、死因は胸の病気「澼飲症」であった。)

息軒先生の教え

  没後140年 「安井息軒顕彰祈念事業」プログラム裏表紙参照
●息軒の読んだ一句
「今は音を 忍ケ丘のほとぎす いつか雲井のよそに名乗らむ」 
「今はひっそりと勉学に打ち込んでいるが、いつかホトトギスのように空高舞い上がり、天下に知られるようになりたい。」勉学のため清武を離れ、江戸の昌平坂学問所で学んでいる時に読んだ一句です。この句から伝わる息軒の志の高さに、ともに勉学に励んでいた学友たちは大変感心したと言われています。
●三計の教え 
「一日の計は朝(あした)にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮の時にあり」
何事も初めが大事であるという考え方で、「今日という日は二度と戻らない。だから一日一日を、その時その時を、大切にしっかり勉強しなさい」という教えです。
3 ●瓦全 
「瓦となりて全(まった)からんよりは、玉となりて砕けん」 
瓦全は玉砕の対語で、徒(いたずら)に身を全くする。何もすることなく生きながらえていく。という意味。 
息軒の晩年は、国が私塾を禁止し、三計塾の生徒が激減したため息軒の衣食の源が絶たれ、また足は立たない、目も見えなくなるなど、八方塞がりの時でした。 
しかし「生きながらえるだけは生きて、学者としてこれまで身につけたものは、後世に書き残しておこう。はでなことは出来ないが、ひっそりとした住居で余生を送りながら執筆したい」と生涯を勉学にささげる志は変わりませんでした。
4 ●半九 
「百里の道をゆくものは九十里をもって半ばとす」
百里を行く者は、九十里を半ばと考えるべきだ。最後の十里が難しいという意味で、事を始めるのはたやすいが、成し遂げるのは難しいことのたとえ。
清武総合支所「半九ホール」の名前の由来になりました。